2008/11/17-11/23の空模様。


目の前で起こっていることは
とてもすてきで楽しく、輝きに満ちています。
同時に、安定していて
「あるべき姿」
に向かっていっています。


この「あるべき」というのはなかなか説明が難しいのです。
ある本で読んだ「あるべきやうは」というところから
この言葉を思い浮かべて使っています。


たとえば、
コーヒーカップとソーサーがあります。
ブラックコーヒーを飲む場合、
ソーサーはあまり意味がありません。
もともと、あの受け皿というものは、
カップ熱いお茶をこぼしてさまして飲むためにうまれたのだそうですが
今はそんなことをする人は誰もいません。
なのに
ソーサーがついている。
なんじゃこりゃ。
私のような無頓着な人間は
あってもなくてもいいし一人のときは絶対使わない
ということになります。
合理的に考えれば、食器洗いの手間などを勘案するに
ソーサーは「無駄」です。
無駄だから要らない
という考え方も、成り立つと思います。


ここで。
コーヒーカップのあるべきようはどういうふうか
という命題が出てきます。
ここでいう
あるべきよう
というのは、合理性から出てくるのではないのです。
やれ食器洗いだ、無駄だ、なんだかんだ、ということではなく
そもそもコーヒーカップのあるべき自然な姿とはどうなのか
と考えて見るわけです。
ソーサーとセットになったカップ
カップだけ取り出して机においてもなんかこう、不自然です。
ものたりないというか、
ノーネクタイ・ノーメイクというか、
それでも別に構わないし困らないんだけど、どうよ
という具合になります。


「ありのままの自分」
と言ったとき、この点が問われるように思うのです。
ありのままの自分とは果たして、
ソーサーありのことなのか、なしのことなのか。


ソーサーがあって、カップが上に乗っていて、
熱いコーヒーが入っている。
それを「どうぞ」と出されたとき、
人の心はこのコーヒーにおさまります。
「ソーサーを洗う手間もなんだし、
 貴方はブラックでいい人だからスプーンを置く場所とかもいらないし、
 これでいいでしょ」
とずばんとカップだけ置かれたら
それは「ありのまま」なのか、というと
ここが疑問符なわけです。


ありのまま、にも、あるべきよう、がある。
というか、ありのまま、には、あるべきようがつまっていて、おさまりがいい。
この時期の山羊座はそう言う意味で
「あるべきよう」が花開く感じがずっとしています。
それはもちろん、ソーサーつきで、
美しい文様の装飾が施されているのです。
これは幾多の職人の努力によって付加されたことですが
同時に、
コーヒーカップという一つの事象が孵化した
といってもいいかもしれません。


今は、そんな孵化の時期です。
貴方は今、努力していろいろなモノを取り入れようとし、
変えようとし、増やそうとし、身につけようとしていると思います。
それらは「付加」しているように見えてじつは「孵化」なのです。
外から取り入れ、創造しているにもかかわらず
それはじつにおさまりがよく、本来のすがたで、
あるべきよう
なのです。